2011年5月4日水曜日

摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料10

資料紹介10
絵はがき「摩耶山全景」など、神戸 岡部商店印刷事務所?、1935年頃

 摩耶山温泉ホテル時代の絵はがき3枚。発行は、裏面に 「神戸 岡部商店印刷事務所 印刷」と記されており、同社によるものと思われるが、あるいは発行・発売元が異なる可能性もある。ここで注目されるのは、3枚とも同じ軍艦の写真が挿入されている点である。「軍艦摩耶」と記されたこの船は、昭和初期から太平洋戦争中に存在し、摩耶山に因んで命名された海軍の重巡洋艦 摩耶と考えられる(当時の軍艦名について、戦艦は旧国名(大和・長門など)、巡洋艦は山や河川の名称を使用することが慣例となっていた)。摩耶は高雄型重巡洋艦の3番艦として、1930(昭和5)年に神戸の川崎造船所で進水、32(昭和7)年に完成し、日中・太平洋戦争で使用され、44(昭和19)年10月にフィリピン パラワン島沖で米軍潜水艦の雷撃により沈没している。以下の絵はがきは、こうした摩耶を摩耶山やケーブル・天上寺などと一緒に提示している。明確な意図はわからないが、地元で建造され、その地名を冠した軍艦に対する愛着が当時は強かったのかもしれない。

摩耶山全景

 ここには上部に天上寺、下部にケーブル摩耶駅周辺の情景が描かれており、形は正確とは言い難いが一番手前の建物は摩耶山温泉(マヤカン)と想定される。また細かい点だが、天上寺の堂宇に三重塔が描かれているが、実際に存在していたのは多宝塔である。


摩耶山ケーブル

 ここでも天上寺に三重塔が描かれている。


佛母摩耶山忉利天上寺

2011年2月18日金曜日

摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料9

資料紹介9
絵はがき集「摩耶山天上寺参道の桜」「摩耶山の黎明」など、赤西萬有堂、1935年頃

 摩耶山温泉ホテル時代の絵はがき数枚。発行は、裏面に 「KOBE AKANISI」と記されており、以前と同様に「赤西萬有堂」と考えられる。それぞれは、本来なら6〜8枚程度のセットの中の1枚であったが、「摩耶山関連の絵はがき15枚」という形態で入手したため、どのようなセットになっていたかは不明なままである。また例によって発行年次は記載されていないが、後述する状況などから、以前紹介したものと同じく1935(昭和10)年頃と推測される。なお、ここでは天上寺関連のものを紹介することにし、マヤカンについては関連サイト(摩耶観光ホテルについて)で公開した。

摩耶山天上寺参詣道献燈 The visiting-road of Tenzho-temple


摩耶山天上寺参道の桜 The visiting-road of Tenzho-temple


摩耶山忉利天上寺本堂 The Tenzho-temple of Maya-mountain


摩耶山忉利天上寺夫人堂 The Tenzho-temple of Maya-mountain


摩耶山忉利天上寺多宝塔と極楽桜 The Taho-tower and Gokuraku-cherry


摩耶山忉利天上寺波銭の手水鉢 The Washig-water Bowl of Tenzyo-temple


摩耶山忉利天上寺奥の院 The Sanctum of Tenzho-temple


摩耶山忉利天上寺遠景 The Perspctive of The Tenzho-temple


摩耶山の黎明 The Maya-mount of Daybreak


摩耶山の霧 The Maya-mount of Fog


摩耶山の月 The Night view of Maya-mountain

2010年5月21日金曜日

摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料8

資料8
摩耶鋼索鉄道株式会社発行の絵はがき、1929〜30年頃

絵はがき1
 ケーブル会社発行の絵はがき。下部に会社名および所在地等が記載され、裏面にも会社名が記載されている。摩耶山と思しき緑の山塊に天上寺の堂塔が記載され「摩耶観音堂」「摩耶夫人堂」と表記されている。その右にケーブル摩耶駅が記載され、ケーブル線が赤で太く描かれている(中間地点の上下線交差および下部のトンネルも記載)。下の高尾駅からは、そこまでの交通手段が描かれており、阪急電車の当時の終点「上筒井」および阪神電車・阪國電車(阪神国道線)の「大石」から赤いラインとともに自動車(おそらく乗合自動車)が記載されている(現在のJR線である「省線なだ駅」(灘駅)および阪國電車「神戸終点」(東神戸駅)からは赤の点線で上筒井まで記載されている。おそらくは徒歩ということか?)。
 発行年は記載されていないが、記載された乗合自動車線等からおよその年代を推定できる。ケーブル会社の社史『六甲山とともに五十年』の年譜によれば、上筒井—高尾間の「乗合自動車営業認可」は、ケーブル開通(1925(大正14)年1月6日)前の1924(大正13)12月27日、大石—高尾間の「路線延長許可」は1929(昭和4)年3月15日で同年6月1日から営業開始となっている。よって、この絵はがきの発行は早くとも1929(昭和4)年夏以降と思われる。
 一方、ケーブル会社の所在地について「神戸市熊内通一丁目」と記載しているが、これは社史によれば「神戸市葺合区熊内通一丁目19番地」であり、それが1931(昭和6)2月に「灘区箕岡通4丁目745番地」に移転している。以上のことから、この絵はがきは1929(昭和4)年夏から30(昭和5)年頃の発行と考えられる。ちなみに社史には、この絵はがきとほぼ同じ構図で1926(大正15)年発のものも掲載紹介されているが、乗合自動車は高尾—上筒井のみとなっている。

絵はがき2

 なおこのはがきの裏面には、切手を貼る部分ではない中央部に切手が張ってあり、また半紙が付いていて、そこに切手の位置に手書きで丸が記され、「日付印」と手書きされている。このことから、このはがきは購入者が実際に発送するわけではなく、記念用に使用するものだったとも思われる。
 最後にマヤカン(摩耶山温泉ホテル)について、この絵はがきが発行された同時期の1929(昭和4)年11月に開業しているが、絵はがきにはそれは記載されていない。おそらくは前述した1926(大正15)年発行のはがきの構図を流用しているためと思われる。

絵はがき3(半紙をかぶせた状態)

2009年4月29日水曜日

摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料7

資料7
パンフレット「静かな奥摩耶山荘」、神戸市電弘済会?、1950年代後半?

静かな奥摩耶山荘1

 かつて奥摩耶(摩耶山頂)地区に存在したホテル「奥摩耶山荘」のパンフレット。発行年は特に記載されていない。同ホテルは1954(昭和29)年7月に 開業しているが、ここに紹介されている奥摩耶地区には1955(昭和30)7月に営業開始した「奥摩耶ロープウェー(現・まやビューライン夢散歩)」が記 載され、また1956(昭和31)年7月に完成したとされる「マウントコースター」などに代表される施設が紹介されていることから、早くとも50年代後半 以降の制作と思われる。またホテルの電話番号が修正されていることから、その後1960年代後半まで使用・頒布されていたものとも想定される。奥摩耶山荘 は1970(昭和45)年前後に営業を停止し建物は撤去されて、同年4月に新たに「国民宿舎摩耶ロッジ」が新築されて再オープンした(現「オテル・ド・マ ヤ」の前身)。


静かな奥摩耶山荘2

 左下の建物はホテル西側に存在した別館の建物のようである。一方、右の部分には「32室100名収容」などのホテルの概要、その下部には奥摩耶地区の説明等が記されている。


静かな奥摩耶山荘3

 1950年代後半から70年代にかけて「奥摩耶遊園地」として機能していた奥摩耶地区の諸施設が地図で紹介されている。マウントコースターのレイアウト等が確認できるが、他にも地図の右下にかつて存在していた「ユースホステル」の建物も記載されている。ここは現在はテレビ局等の電波中継施設が立ち並んでいる。同時期のガイドブックや住宅地図などから、正式名称は「ユースホステル奥摩耶ハウス」であったらしい。その正確な営業期間は不明だが、同時期の住宅地図によれば、50年代後半は「林間学校 奥摩耶ハウス」と記載されていたが、60年代前半にはユースホステルとなり、70年代前半には神戸市立高校の施設(それでも名称は奥摩耶ハウス)となっていた。さらに70年代後半には建物自体の記載がなくなっており、おそらくこの時期に解体撤去されたものと考えられる。
 また地図左下には「奥の院跡」「一本杉」の記載があるが、ここに現在は天上寺の伽藍が存在している。この当時、天上寺はまだ摩耶山中腹(現・史跡公園)にあったが、1976(昭和51)年1月に火災によりほぼ全焼した。その後、80年代に入って天上寺創建の場所と伝承され、一本杉があったこの地に伽藍が再建されている。


静かな奥摩耶山荘4

 ここに登場する「名物かまぶろ」は、以前紹介した絵はがき集でも確認できるものである。また左側にユースホステルの建物が掲載されている。


静かな奥摩耶山荘5


静かな奥摩耶山荘6

 左下の「観光放牧場」は1956(昭和31)年に開業した観光牧場で、現在の「六甲山牧場」の起源となる施設である。

2009年2月17日火曜日

摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料6

資料6
絵はがき「国立公園 まや山 NATIONAL PARK Mt.Maya」、摩耶鋼索鉄道株式会社、1950年代後半(昭和30年代前半)?

 摩耶ケーブル会社が、摩耶山の再活性化した1950年代後半に販売したと思われる絵はがき集。関連資料5および摩耶観光ホテルについて(摩耶観光ホテルについて12(資料9)2007年3月)と同時期のものと思われる。このいずれも白黒写真に彩色したものであったが、今回の絵はがきも同様である。表紙には特に記載はなされていないが、はがき裏面に「摩耶鋼索鉄道株式会社」と記載されており、同社の発行であることが確認できる。また「京都 日本写真印刷印行」ともあって、これはそこで印刷されたことを示していると思われる。
 ケーブル会社によるものということで、ロープウェイ開通と同時に遊園地として整備された山頂地区は、奥摩耶山荘からの夜景のみであり、代わってケーブル摩耶駅周辺の展望台などが紹介されている。これは明らかに、以前紹介した2つとは異なる特徴といえよう。

表紙

絵はがき1 最急勾配をゆくケーブルカー Cable-car going up the steep grade.

絵はがき2 ケーブル沿線の新緑 Vendure alomg the cable-car railway.

絵はがき3 ケーブル山上展望台 View-place at the cable-car terminal.

絵はがき4 ケーブル山上遊園地の桜花 Cherry-blossoms in the park at the cable-car terminal.

絵はがき5 まや山天上寺の多宝塔  Pagota of Tenjoji-temple, Mt.Maya.

絵はがき6 奥まやロープウェー Aerial railway of the interior Mt.Maya.

絵はがき7 奥まや山荘よりの夜景 Night scenery from Hotel Okumaya Sanso.

絵はがき8 まや山全景 The whole landscape of Mt.Maya.

 以前紹介した絵はがき(摩耶観光ホテルについて12(資料9)2007年3月)にも同様のものがあったが、これは前のものより西側から摩耶山を見上げた構図となっている。中央に途中トンネルで分断されているもののケーブルカーの路線、尾根筋の左上に山頂部の施設、ケーブル路線のすぐ左に中腹部の施設などが確認できるが、何よりもケーブル右側に一際目立つのがマヤカンである。彩色しているせいか、煙突が円錐形になっていたりして不鮮明ではあるが、形態的には以前の絵はがきと同様に増築前の姿である。よってこの絵はがきは、マヤカンが増築され再デビューする1961(昭和36)年以前の状況を示していると思われる。

表紙カバー裏面に記された略地図

2008年12月11日木曜日

摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料5

資料5
絵はがき「攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景」など3枚、1925〜29(大正14〜昭和4)年頃?

 1925(大正14)年1月、摩耶山にケーブルカーが開通し、マヤカンこと摩耶山温泉ホテルが開業する1929(昭和4)年11月までの期間に作成・販売されたと推測される絵はがき。形態は1枚のはがきに2つの名所を紹介するというもの。作成者は3枚セットで入手したものの、おそらくはこの他に数枚程度加わって一つの絵はがき集となっていたとも考えられる。作成・発行者は特に記載はなく不明である。作成年を上記のように限定したのは、マヤカンが登場していない点、およびその後マヤカンが建てられる以前に、同じ場所に存在した「テント村」が登場することから判断した。ただし未確認の絵はがきにマヤカンが登場するものが存在しているかもしれないし、あるいはマヤカン開業後も「テント村」は周辺で設置されていたので、場合によっては、時期が1935(昭和10)年頃まで下る可能性も否定はできない。

絵はがき1 攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景・攝津摩耶テント村ノ景

 ここにある「テント村」は、ケーブルが開通した1925(大正14)年から、毎年7月上旬から8月末まで摩耶山遊園地周辺に設置されていたもので、別のパンフレットには「夏季テント村」とも表記されている(摩耶観光ホテルについて9(資料6)2006年 04月 参照)。その場所は、マヤカンが営業開始した以後も設置されていることから、何ヶ所かに分散配置されていたと考えられる。ただしここに見られるのは、地形と近隣の山容からケーブル摩耶駅の東側斜面、すなわち現在のマヤカンが存在している場所である。

絵はがき2 攝津摩耶山ケーブルカーより神戸市を望む・攝津摩耶山摩耶食堂の内部

 ここで注目されるのが、左の「摩耶食堂の内部」である。細長いフロアにほぼ2列にテーブルクロス掛けられた四角形のテーブルに「サクラビール」(「帝国麦酒」製、後にサッポロビールと合併)と表記されたイスが配されている。中央右手には厨房に続くようなカウンターも確認される。これと似たような構図は、マヤカン内にあった食堂の写真(摩耶観光ホテルについて9(資料6)2006年 04月 参照)でも見られるが、フロアの広さはまったく異なっているのでそれではない。ケーブル会社の社史(『六甲山とともに五十年』)の年譜には、1925(大正14)年5月31日に「摩耶駅付近に摩耶食堂開業 他に貸売店8戸開業」と表記されている。また以前紹介した絵はがきには、判然とはしないものの、それらしき施設が確認できる(摩耶観光ホテルについて10(資料7)2006年 09月 参照)。よってここにみられるのは、表記の通り「摩耶食堂」ということになろう。天上や壁面から木造と判断されるが、なかなか洒落た雰囲気に感じられる。

絵はがき3 攝津摩耶山忉利天上寺本堂・攝津摩耶山忉利天上寺門前

2008年4月13日日曜日

摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料4

資料4
絵はがき「国立公園 奥摩耶 Okuyama National Park」、1956(昭和31)年頃

 第二次大戦後の1955(昭和30)年に摩耶ケーブルが復活、合わせてロープウェイも開通し、摩耶山を含めた六甲山地域が瀬戸内国立公園に指定編入された56(昭和31)年頃に発行されたと思われる絵はがき集。構成は実質7枚からなる、後に紹介する夜景のものは2枚分(分割可能)を使用しているので、8枚組ともとらえられる。タイトルの通り奥摩耶、つまり摩耶山頂部を中心にした内容であり、戦前から整備されたケーブル摩耶駅周辺(摩耶山中腹部)は、天上寺のみが登場するだけで、マヤカン等は確認できない。これは当時、奥摩耶の観光施設の整備が進んだ一方で、元の中心であった中腹部は、ケーブルとロープウェイの単なる乗り換え地点になっていたためと推測される。発行は特に記載がなく不明なままだが、表紙裏の地図の下に丸に「大」の紋が描かれ、横に「神戸店納」と記載されている。このことから、この絵はがき集は、神戸元町の大丸神戸店で販売されていたものと考えられる。なお絵はがきは、一見カラーなのかと感じられるが、実際には白黒写真に彩色したものである。


表紙


絵はがき1 国立公園奥摩耶 摩耶ケーブル Cablecar to Maya.


絵はがき2 国立公園奥摩耶 奥摩耶ロープウェー Ropeway to Oku-Maya.


絵はがき3 国立公園奥摩耶 遊園地と展望台虹の懸橋 Oku-Maya Recreation Ground.
 ロープウェイ開通と同時に整備された山頂地区の光景。中央やや上に七色に彩色されたカバーのある場所が、現在も展望台がある「虹の懸橋」である。


絵はがき4 国立公園奥摩耶 マウントコースター Mount Coaster.
 当時の奥摩耶には、「虹の懸橋」とともに様々な遊戯施設も存在していたが、現在でもその魅力が語り継がれるものが、ここに登場する「マウントコースター」である。これは参考サイトによれば、1956(昭和31)年7月25日に「完成」(オープンか?)し、このはがきの通り、「山上を周回したあと大きく山を飛びだし眼下の市街地へ飛び出した」(ナダタマ-ナダ用語辞典)、小規模ながらスリルある乗り物として人気を博したという。1970年代に摩耶山観光の不振から撤去されたが、その痕跡は80年代に整備された自然観察園内に今も残されている。
参考サイト

夏草や −ひょうごの遺構を訪ねる 12.奥摩耶山上遊園地(神戸市灘区) スリルと眺望 人気呼ぶ(2006/08/11)
ナダタマ-ナダ用語辞典:灘の用語-1:あ行;奥摩耶遊園地
なだだなPDFダウロードページ
情報誌「なだだな」4号(1999.4)
神戸文書館 神戸歴史年表


絵はがき5 国立公園奥摩耶 千万弗の夜景 Night view of Kobe City.
 現在、掬星台からの夜景は「日本三大夜景」に数えられ、その美しさで全国的にも有名であるが、この絵はがきにある通り、千万ドル、一千万ドルの夜景などとも表現されている。三大夜景や千万ドル、あるいは美しい夜景に対して「百万ドルの夜景」と表されることについては、諸説が存在して判然とはしないが、摩耶山の夜景については、六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったといわれている。
参考文献
『六甲山とともに五十年』六甲摩耶鉄道株式会社、1982、56頁


絵はがき6 国立公園奥摩耶 ホテル奥摩耶山荘「かまぶろ」 “Kamaburo” bath-room of the Hotel Okumaya.
 奥摩耶山荘は、1954(昭和29)年7月から1970(昭和45)年頃まで奥摩耶で営業していたホテルである。当時ホテルの名物として、食事は摩耶鍋(これはマヤカンでも出していた)、そしてここにある釜風呂が知られていた。なお奥摩耶山荘は、70年に解体され、跡地に国民宿舎摩耶ロッジがつくられた。その建物は現在「オテル・ド・摩耶」というホテルにリニュアルされている。


絵はがき7  国立公園奥摩耶  摩耶天上寺 The Maya Tenjoji Temple.


表紙裏に記載された地図
 前述の通り、これによってこの絵はがき集が大丸神戸店で販売されていたと推測できる。

2008年4月11日金曜日

摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料3

資料3
絵はがき「摩耶山参拝記念絵葉書」、天上寺?
 天上寺参拝を中心にした絵はがき集。10枚構成で、うち8枚が天上寺関連を写したものである。また表紙には、豊臣秀吉や徳川幕府から所領寄進を受けたことに因むと思われる桐と葵の紋が描かれている。これらの構成・装丁から、この絵はがき集は天上寺発行か、あるいは少なくとも天上寺で販売されていたものと推定される。第二次大戦前に作成されているものの、正確な発行年代は不明。なおすべてのはがきに、参拝記念の印が押されている。

表紙


絵はがき1 摩耶山ケーブルカー

絵はがき2 摩耶山 山門
 この山門は天上寺旧境内の入口、長い石段のさらに下にあり、1976年の火災で被害を免れて、現在も同地に残されている(安置されていた仁王像は移転撤去)。江戸後期の建立という。


絵はがき3 摩耶山石段

絵はがき4 摩耶山嗽水舎

絵はがき5 摩耶山天上寺本堂


絵はがき6 摩耶山多宝塔


絵はがき7 摩耶夫人堂
 摩耶山の山名の由来にもなっている釈迦の母「摩耶夫人」を祭祀する堂。参道をはさんで多宝塔の向かい側に存在していた(他に護摩堂・鐘楼など)
参考サイト:「摩耶山天上寺多宝塔」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_mayasan.htm



絵はがき8 摩耶山開基法道仙人の像
この像は、火災後に現在の新天上寺に移されたのか、ほぼ同様の像が境内に確認される。


絵はがき9  赤松円心陣太鼓(躑躅木製径二尺八寸)
 摩耶山は、1333(元弘3)年に鎌倉幕府に対して叛乱を起こした播磨国の土豪・赤松円心(則村)が立て籠もって、幕府軍と戦火を交えた場所として伝えられている。円心が籠もった「摩耶山城」は、実際にはケーブル摩耶駅(現・虹の駅)付近が有力候補地といわれているが、天上寺もその候補地の一つとして、遅くとも江戸期から認知されてきた。このために、円心の遺物的な物が伝えられてきたと考えられるが、おそらくは後世に由緒あるものとして、意味づけされたものであろう。


絵はがき10 摩耶山ヨリ見タル神戸市