資料5
絵はがき「攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景」など3枚、1925〜29(大正14〜昭和4)年頃?
1925(大正14)年1月、摩耶山にケーブルカーが開通し、マヤカンこと摩耶山温泉ホテルが開業する1929(昭和4)年11月までの期間に作成・販売されたと推測される絵はがき。形態は1枚のはがきに2つの名所を紹介するというもの。作成者は3枚セットで入手したものの、おそらくはこの他に数枚程度加わって一つの絵はがき集となっていたとも考えられる。作成・発行者は特に記載はなく不明である。作成年を上記のように限定したのは、マヤカンが登場していない点、およびその後マヤカンが建てられる以前に、同じ場所に存在した「テント村」が登場することから判断した。ただし未確認の絵はがきにマヤカンが登場するものが存在しているかもしれないし、あるいはマヤカン開業後も「テント村」は周辺で設置されていたので、場合によっては、時期が1935(昭和10)年頃まで下る可能性も否定はできない。
絵はがき1 攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景・攝津摩耶テント村ノ景
ここにある「テント村」は、ケーブルが開通した1925(大正14)年から、毎年7月上旬から8月末まで摩耶山遊園地周辺に設置されていたもので、別のパンフレットには「夏季テント村」とも表記されている(摩耶観光ホテルについて9(資料6)2006年 04月 参照)。その場所は、マヤカンが営業開始した以後も設置されていることから、何ヶ所かに分散配置されていたと考えられる。ただしここに見られるのは、地形と近隣の山容からケーブル摩耶駅の東側斜面、すなわち現在のマヤカンが存在している場所である。
絵はがき2 攝津摩耶山ケーブルカーより神戸市を望む・攝津摩耶山摩耶食堂の内部
ここで注目されるのが、左の「摩耶食堂の内部」である。細長いフロアにほぼ2列にテーブルクロス掛けられた四角形のテーブルに「サクラビール」(「帝国麦酒」製、後にサッポロビールと合併)と表記されたイスが配されている。中央右手には厨房に続くようなカウンターも確認される。これと似たような構図は、マヤカン内にあった食堂の写真(摩耶観光ホテルについて9(資料6)2006年 04月 参照)でも見られるが、フロアの広さはまったく異なっているのでそれではない。ケーブル会社の社史(『六甲山とともに五十年』)の年譜には、1925(大正14)年5月31日に「摩耶駅付近に摩耶食堂開業 他に貸売店8戸開業」と表記されている。また以前紹介した絵はがきには、判然とはしないものの、それらしき施設が確認できる(摩耶観光ホテルについて10(資料7)2006年 09月 参照)。よってここにみられるのは、表記の通り「摩耶食堂」ということになろう。天上や壁面から木造と判断されるが、なかなか洒落た雰囲気に感じられる。
絵はがき3 攝津摩耶山忉利天上寺本堂・攝津摩耶山忉利天上寺門前
2008年12月11日木曜日
2008年4月13日日曜日
摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料4
資料4
絵はがき「国立公園 奥摩耶 Okuyama National Park」、1956(昭和31)年頃
第二次大戦後の1955(昭和30)年に摩耶ケーブルが復活、合わせてロープウェイも開通し、摩耶山を含めた六甲山地域が瀬戸内国立公園に指定編入された56(昭和31)年頃に発行されたと思われる絵はがき集。構成は実質7枚からなる、後に紹介する夜景のものは2枚分(分割可能)を使用しているので、8枚組ともとらえられる。タイトルの通り奥摩耶、つまり摩耶山頂部を中心にした内容であり、戦前から整備されたケーブル摩耶駅周辺(摩耶山中腹部)は、天上寺のみが登場するだけで、マヤカン等は確認できない。これは当時、奥摩耶の観光施設の整備が進んだ一方で、元の中心であった中腹部は、ケーブルとロープウェイの単なる乗り換え地点になっていたためと推測される。発行は特に記載がなく不明なままだが、表紙裏の地図の下に丸に「大」の紋が描かれ、横に「神戸店納」と記載されている。このことから、この絵はがき集は、神戸元町の大丸神戸店で販売されていたものと考えられる。なお絵はがきは、一見カラーなのかと感じられるが、実際には白黒写真に彩色したものである。
絵はがき「国立公園 奥摩耶 Okuyama National Park」、1956(昭和31)年頃
第二次大戦後の1955(昭和30)年に摩耶ケーブルが復活、合わせてロープウェイも開通し、摩耶山を含めた六甲山地域が瀬戸内国立公園に指定編入された56(昭和31)年頃に発行されたと思われる絵はがき集。構成は実質7枚からなる、後に紹介する夜景のものは2枚分(分割可能)を使用しているので、8枚組ともとらえられる。タイトルの通り奥摩耶、つまり摩耶山頂部を中心にした内容であり、戦前から整備されたケーブル摩耶駅周辺(摩耶山中腹部)は、天上寺のみが登場するだけで、マヤカン等は確認できない。これは当時、奥摩耶の観光施設の整備が進んだ一方で、元の中心であった中腹部は、ケーブルとロープウェイの単なる乗り換え地点になっていたためと推測される。発行は特に記載がなく不明なままだが、表紙裏の地図の下に丸に「大」の紋が描かれ、横に「神戸店納」と記載されている。このことから、この絵はがき集は、神戸元町の大丸神戸店で販売されていたものと考えられる。なお絵はがきは、一見カラーなのかと感じられるが、実際には白黒写真に彩色したものである。
表紙
絵はがき1 国立公園奥摩耶 摩耶ケーブル Cablecar to Maya.
絵はがき2 国立公園奥摩耶 奥摩耶ロープウェー Ropeway to Oku-Maya.
絵はがき3 国立公園奥摩耶 遊園地と展望台虹の懸橋 Oku-Maya Recreation Ground.
絵はがき1 国立公園奥摩耶 摩耶ケーブル Cablecar to Maya.
絵はがき2 国立公園奥摩耶 奥摩耶ロープウェー Ropeway to Oku-Maya.
絵はがき3 国立公園奥摩耶 遊園地と展望台虹の懸橋 Oku-Maya Recreation Ground.
ロープウェイ開通と同時に整備された山頂地区の光景。中央やや上に七色に彩色されたカバーのある場所が、現在も展望台がある「虹の懸橋」である。
当時の奥摩耶には、「虹の懸橋」とともに様々な遊戯施設も存在していたが、現在でもその魅力が語り継がれるものが、ここに登場する「マウントコースター」である。これは参考サイトによれば、1956(昭和31)年7月25日に「完成」(オープンか?)し、このはがきの通り、「山上を周回したあと大きく山を飛びだし眼下の市街地へ飛び出した」(ナダタマ-ナダ用語辞典)、小規模ながらスリルある乗り物として人気を博したという。1970年代に摩耶山観光の不振から撤去されたが、その痕跡は80年代に整備された自然観察園内に今も残されている。
参考サイト
夏草や −ひょうごの遺構を訪ねる 12.奥摩耶山上遊園地(神戸市灘区) スリルと眺望 人気呼ぶ(2006/08/11)
ナダタマ-ナダ用語辞典:灘の用語-1:あ行;奥摩耶遊園地
なだだなPDFダウロードページ
情報誌「なだだな」4号(1999.4)
神戸文書館 神戸歴史年表
現在、掬星台からの夜景は「日本三大夜景」に数えられ、その美しさで全国的にも有名であるが、この絵はがきにある通り、千万ドル、一千万ドルの夜景などとも表現されている。三大夜景や千万ドル、あるいは美しい夜景に対して「百万ドルの夜景」と表されることについては、諸説が存在して判然とはしないが、摩耶山の夜景については、六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったといわれている。
参考文献
『六甲山とともに五十年』六甲摩耶鉄道株式会社、1982、56頁
当時の奥摩耶には、「虹の懸橋」とともに様々な遊戯施設も存在していたが、現在でもその魅力が語り継がれるものが、ここに登場する「マウントコースター」である。これは参考サイトによれば、1956(昭和31)年7月25日に「完成」(オープンか?)し、このはがきの通り、「山上を周回したあと大きく山を飛びだし眼下の市街地へ飛び出した」(ナダタマ-ナダ用語辞典)、小規模ながらスリルある乗り物として人気を博したという。1970年代に摩耶山観光の不振から撤去されたが、その痕跡は80年代に整備された自然観察園内に今も残されている。
参考サイト
夏草や −ひょうごの遺構を訪ねる 12.奥摩耶山上遊園地(神戸市灘区) スリルと眺望 人気呼ぶ(2006/08/11)
ナダタマ-ナダ用語辞典:灘の用語-1:あ行;奥摩耶遊園地
なだだなPDFダウロードページ
情報誌「なだだな」4号(1999.4)
神戸文書館 神戸歴史年表
現在、掬星台からの夜景は「日本三大夜景」に数えられ、その美しさで全国的にも有名であるが、この絵はがきにある通り、千万ドル、一千万ドルの夜景などとも表現されている。三大夜景や千万ドル、あるいは美しい夜景に対して「百万ドルの夜景」と表されることについては、諸説が存在して判然とはしないが、摩耶山の夜景については、六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったといわれている。
参考文献
『六甲山とともに五十年』六甲摩耶鉄道株式会社、1982、56頁
2008年4月11日金曜日
摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料3
資料3
絵はがき「摩耶山参拝記念絵葉書」、天上寺?
天上寺参拝を中心にした絵はがき集。10枚構成で、うち8枚が天上寺関連を写したものである。また表紙には、豊臣秀吉や徳川幕府から所領寄進を受けたことに因むと思われる桐と葵の紋が描かれている。これらの構成・装丁から、この絵はがき集は天上寺発行か、あるいは少なくとも天上寺で販売されていたものと推定される。第二次大戦前に作成されているものの、正確な発行年代は不明。なおすべてのはがきに、参拝記念の印が押されている。
参考サイト:「摩耶山天上寺多宝塔」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_mayasan.htm
摩耶山は、1333(元弘3)年に鎌倉幕府に対して叛乱を起こした播磨国の土豪・赤松円心(則村)が立て籠もって、幕府軍と戦火を交えた場所として伝えられている。円心が籠もった「摩耶山城」は、実際にはケーブル摩耶駅(現・虹の駅)付近が有力候補地といわれているが、天上寺もその候補地の一つとして、遅くとも江戸期から認知されてきた。このために、円心の遺物的な物が伝えられてきたと考えられるが、おそらくは後世に由緒あるものとして、意味づけされたものであろう。
絵はがき「摩耶山参拝記念絵葉書」、天上寺?
天上寺参拝を中心にした絵はがき集。10枚構成で、うち8枚が天上寺関連を写したものである。また表紙には、豊臣秀吉や徳川幕府から所領寄進を受けたことに因むと思われる桐と葵の紋が描かれている。これらの構成・装丁から、この絵はがき集は天上寺発行か、あるいは少なくとも天上寺で販売されていたものと推定される。第二次大戦前に作成されているものの、正確な発行年代は不明。なおすべてのはがきに、参拝記念の印が押されている。
絵はがき3 摩耶山石段
絵はがき4 摩耶山嗽水舎
絵はがき6 摩耶山多宝塔
摩耶山の山名の由来にもなっている釈迦の母「摩耶夫人」を祭祀する堂。参道をはさんで多宝塔の向かい側に存在していた(他に護摩堂・鐘楼など)参考サイト:「摩耶山天上寺多宝塔」http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_mayasan.htm
2008年4月10日木曜日
摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料2
資料2
絵はがき「摂津摩耶山参拝ケーブルカー」、摩耶鋼索鉄道株式会社
前回に引き続きケーブル会社による絵はがき集。こちらの構成は8枚組であ り、前回に紹介したものも6枚ではなかった可能性もある。発行年代はやはり不明だが、表紙右側に(20)という番号が記載されている。前シリーズの表紙 には(10)と記載されていることから、今回の方が年代的に新しいとも考えられる。内容は基本的には同じである。
このはがきは次のはがき(其二)と切れ目付きで連続している。ここでは分割して紹介する。
「最高峰」といいながら天上寺の森は同所とそれほど高度差がないように感じられる。実際には少し下った場所か、あるいは単にそう見える構図で撮影されただけかもしれない。ただもし頂上部ならば、戦時中の高射砲陣地(現在の掬星台)造成前の状況ということになる。
ここに確認できる阪急電車(赤線)の神戸線が三宮に乗り入れていない(おそらく上筒井)。よってこれは同線が三宮に乗り入れた1936年4月以前の状態と考えられる。
絵はがき「摂津摩耶山参拝ケーブルカー」、摩耶鋼索鉄道株式会社
前回に引き続きケーブル会社による絵はがき集。こちらの構成は8枚組であ り、前回に紹介したものも6枚ではなかった可能性もある。発行年代はやはり不明だが、表紙右側に(20)という番号が記載されている。前シリーズの表紙 には(10)と記載されていることから、今回の方が年代的に新しいとも考えられる。内容は基本的には同じである。
このはがきは次のはがき(其二)と切れ目付きで連続している。ここでは分割して紹介する。
「最高峰」といいながら天上寺の森は同所とそれほど高度差がないように感じられる。実際には少し下った場所か、あるいは単にそう見える構図で撮影されただけかもしれない。ただもし頂上部ならば、戦時中の高射砲陣地(現在の掬星台)造成前の状況ということになる。
ここに確認できる阪急電車(赤線)の神戸線が三宮に乗り入れていない(おそらく上筒井)。よってこれは同線が三宮に乗り入れた1936年4月以前の状態と考えられる。
2008年4月9日水曜日
摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料1
資料1
絵はがき「摂津摩耶山参拝ケーブルカー(御土産)」、摩耶鋼索鉄道株式会社摩耶高尾駅構内売店
ケーブル会社が発行した絵はがき集。構成は6枚組で、タイトル通りケーブルと天上寺を中心にしているが、1・2枚欠落している場合や別のシリーズから入れられた可能性もある。現存する6枚には、残念ながら摩耶山温泉ホテル(マヤカン)は登場しないが、関連資料として紹介する。発行年代は不明。マヤカンがなしということで、発行は1929(昭和4)年11月以前とも想定される。
絵はがき「摂津摩耶山参拝ケーブルカー(御土産)」、摩耶鋼索鉄道株式会社摩耶高尾駅構内売店
ケーブル会社が発行した絵はがき集。構成は6枚組で、タイトル通りケーブルと天上寺を中心にしているが、1・2枚欠落している場合や別のシリーズから入れられた可能性もある。現存する6枚には、残念ながら摩耶山温泉ホテル(マヤカン)は登場しないが、関連資料として紹介する。発行年代は不明。マヤカンがなしということで、発行は1929(昭和4)年11月以前とも想定される。
絵はがき2 ケーブルカー高尾山隧道内光景
このはがきのみ、英文が記載されていない。別シリーズの可能性も想定される。
このはがきは、前のものと内容的に重複している。やはり別シリーズの可能性が想定される。
天上寺は1976(昭和51)年1月に火災に遭い、本堂・多宝塔等、主要堂宇が全焼し、80年代以降に摩耶山頂部(奥摩耶)付近の摩耶山別山(伝承によれば天上寺発祥の地)に移動して再建された。残された旧境内は、「摩耶山史跡公園」となって、礎石などが残されている。
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